2008年 11月 15日 ( 1 )

「歴史」について休日の駄文

歴史番組でそれまで「通説」とされてきたものに異説・新説を紹介するものがしばしば目につくけれども、「ホントはそうなんだ〜」と面白がる人もあれば、自らが読み知った「歴史」に照らして「あんな筈はない。」とムキになって否定する人もいる。

「歴史」というものは、既に過ぎ去った事象やそれに派生したあれやこれやの断片や痕跡を組み合わせて紡ぐ物語であろう。
「歴史認識」という物言いは本当に可能なのか。それぞれの物語の間に差異があるという以上の事が云いうるのか。

もし社会通念的に「正しい」歴史と扱われることがあるとすれば、それは『正しさ』によるものではなくて、声高に主張する事、「信じる」に足りると思わせる材料を目につくように用意駆使する功によるものではないか。

この「物語」を信念もって書いた人はさしたる議論も経ぬまま、有無をいわさず首を切られた訳だが、こういう考え方だってあるという事実に目をつぶり、絶対悪のごとくつぶそうとするこの日本社会に「言論の自由」があるというのならば、それは嫌みなのか?悪意なのか?それならまだいい。が、恐らくは単なる無自覚であろう。

さて、私には、どの物語を『正しい』としたい衝動は余りない。もちろん「この物語が正しいと言え」と、はしたない強要をされると受け入れを拒みたくもなるが。

ただこの一国はやはり犯罪者のレッテル付きの敗戦国であり続けているのだなあ、とは感じる。
これが一概に『悪い』のかどうかは分からない。核兵器を落としたり打ち込もうとしている側は平然としているが、この国は落とされて謝った国である。
言い換えれば、相手に非があれば非難するのと、自らに非が皆無でない限り謝るのとどちらの品をとるか。
また、これまでは殴られる代わりに、カネをバラまいて謝まりへつらう事によって喧嘩を忌避する事が出来たとも言える。

これからはどうするのだろう。カネも資源もない。日本が他の国と対等に渉りあおうとするならば想像を絶する軋轢を内外に生ずるのは目に見えている。

私としては国家の座標軸をカネや力から智と徳へ持っていく方が好ましく感じるが、その「東洋的国家」の実現は喧嘩をするより遥かに難しいだろう。
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by esquisses | 2008-11-15 08:56


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